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日本社会党

日本社会党(にっぽんしゃかいとう、略称:社会、Social Democratic Party Japan、"SDPJ")は、かつて存在した日本の政党。 1945年、旧無産政党系の政治勢力を結集して結成されて以降約50年間活動を続けたが、1996年に後継団体たる社会民主党に改組した。沿革と歴史結党から片山内閣へ戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が一同団結して結成された。前身の政党は主に、左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会大衆党で、右派・中間派は民主社会主義的な社会民主主義観を、左派は修正マルクス主義的な社会民主主義観をもっていた。日本労農党には戦中、社会主義の実現を国家主義に求めて軍部に積極的に協力した議員が多かった。また社会大衆党も、戦時中反軍を貫いた議員が多かった一方で、その内実は極めてタカ派的なものだった。結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称をSocial Democratic Party of Japanとすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第にJapan Socialist Party(JSP 訳:日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの英称を再確認するようになった。労働農民党系、日本労農党系、社会大衆党系の3派の対立を戦前から引きずって、たびたび派閥対立を起こした。なお、日本労農党系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長に片山哲が就任した。(後に委員長に就任)ポツダム宣言受諾により、大日本帝國憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「社会黨 憲法改正要綱」を発表した[1]。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民の生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった[2]。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散・内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第一党となり、その結果民主党・国民協同党との三党連立内閣である片山内閣が成立したが、平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭電事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党か階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。         日本社会党中央執行委員会中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、          片山  哲           加藤 勘十 片山  哲    西尾 末広   森戸 辰男   浅沼稲次郎   〃      浅沼稲次郎   鈴木茂三郎   八百板 正   〃      鈴木茂三郎     〃       〃    鈴木茂三郎    浅沼稲次郎   水谷長三郎   三宅 正一 左右の分裂と総評・社会主義協会の結成その後、左右両派の対立が深刻化し、1950年1月16日には一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立して1951年10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長・島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では平和四原則が決定された。第二代事務局長の高野実も反米・反政府の姿勢を強めた。1951年には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的・理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。1951年、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。        右派・日本社会党中央執行委員会中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、          浅沼稲次郎   水谷長三郎   安井 吉典 河上丈太郎      〃       〃     三宅 正一左派社会党は1954年に、向坂逸郎らが作成に関与し社会主義革命を明記した綱領(左社綱領)を決定した。作成の過程で清水慎三から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が再統一を果たすと、折衷的な内容の綱領(統一社会党綱領)がつくられた。社会党、特に左派は再軍備反対と共に、護憲を公約に掲げるようになった。1955年の第27回総選挙では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定・天皇制廃止を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派から民社党を結党した流れは、次第に明文改憲に傾いていった。        左派・日本社会党中央執行委員会中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、 鈴木茂三郎    野溝  勝   和田 博雄   佐々木更三   〃      和田 博雄   横路 節雄   赤松  勇 再統一と60年安保闘争・三池争議左右両派は1955年10月13日に党大会を開いて社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。1950年代の躍進によって、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大していた。同じ年には保守合同で自由民主党が結成された。日本共産党も、六全協で党の統一を回復した(55年体制成立)。当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年の第4回参議院選挙では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。1957年1月には労働者農民党が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で、衆議院160議席となっていた。しかし、1958年の第28回総選挙では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一三分の一を超す議席を獲得した選挙だった。1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障体制を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側に加担する動きを見せるなどした(第二組合、いわゆる御用組合)。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。なお、民社党の離反の背後には、米国の支援もあった(左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に)。当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。構造改革論争と「道」の策定民社党が分裂したものの野党第一党の地位は揺らぐことなく、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。浅沼稲次郎委員長暗殺直後の1960年第29回総選挙では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の江田三郎は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという構造改革論を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた佐々木更三との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義は資本主義体制を認めた上の「改良主義」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視された。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する革命を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連・中国や東欧諸国など東側陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、東側諸国に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ヴェトナム侵略」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。停滞から低落へこの間、1963年の第30回総選挙では前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は選挙のたびに候補者を増やしていた。社会党も1964年成田三原則(議員党的体質、労組依存、日常活動不足)の指摘など、停滞克服の一定の努力はした。しかし、社会変化に適応した政策策定の不十分と内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。1969年の第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した[3]。これについて、石川真澄は、この当時の社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争(内ゲバ)、中国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)など)のために、社会党に嫌気がさした旧来の支持層の多くが棄権し、各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。しかし、日本共産党はこの時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また新左翼に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、ベトナム戦争はアメリカの不正義性とアジア各国の社会主義の優越性を示すものとして、社会主義への期待は一部に残っており、むしろ、多党化現象の余波を受けたというほうが正確とする意見もある。社会党の財政は弱体で、会派所属の議員に支給される立法事務費を党財政の足しにしていた[4]。そのため、50議席減による減収によって、本部書記(職員)の退職勧誘が行われる事態になった。再就職の当てがある人材を対象としたため、優秀な職員を手放すことになったのも痛手であった。1972年の第33回総選挙では、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。55年体制の成立当初は、社会党は政権獲得を目指したが、地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなかで、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱し、公明党や共産党に支持基盤を奪われることとなった。中国の文化大革命の実態が毛沢東の死後に明らかにされ、カンボジアのポルポト政権による国民の大量虐殺が発覚し、新左翼内部において「内ゲバ」と呼称される数千人の死傷者を伴う暴力的抗争が続発するなかで、有権者の社会主義に対する興味関心を失わせ、これに伴い社会党は現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。社会党は「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がり始めた。特に都市部での凋落はひどかった。東京都議会ではその傾向がひどく、1969年東京都議会議員選挙で、公明党に抜かれ第3党となり、1973年東京都議会議員選挙では共産党にも追い抜かれ、第4党に転落した。その一方、地方では自民党と社会党で議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。(ただし、圧倒的に自民党の議席が多く、北海道など一定の地盤のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった)社会党は都市型政党から、次第に農村型政党に変貌していった。革新自治体と社会主義協会派の台頭60年代後半から70年代の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体選挙では共産党と共闘し、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。社会福祉の充実などに一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判もある。このなかで、社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」を絶対視し、ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、佐々木は中国派傾向を強めるとともに仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化した。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した。また、末端のほとんどの党員はそのような事実は知る由もなかった。一方、自民党もアメリカから援助を受けており、自民・社会両党の対立は、冷戦の代理戦争の様相を一時呈していた。協会規制と「新宣言」1976年の第34回総選挙で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし日本社会党(にっぽんしゃかいとう、略称:社会、Social Democratic Party Japan、"SDPJ")は、かつて存在した日本の政党。 1945年、旧無産政党系の政治勢力を結集して結成されて以降約50年間活動を続けたが、1996年に後継団体たる社会民主党に改組した。沿革と歴史結党から片山内閣へ戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が一同団結して結成された。前身の政党は主に、左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会大衆党で、右派・中間派は民主社会主義的な社会民主主義観を、左派は修正マルクス主義的な社会民主主義観をもっていた。日本労農党には戦中、社会主義の実現を国家主義に求めて軍部に積極的に協力した議員が多かった。また社会大衆党も、戦時中反軍を貫いた議員が多かった一方で、その内実は極めてタカ派的なものだった。結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称をSocial Democratic Party of Japanとすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第にJapan Socialist Party(JSP 訳:日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの英称を再確認するようになった。労働農民党系、日本労農党系、社会大衆党系の3派の対立を戦前から引きずって、たびたび派閥対立を起こした。なお、日本労農党系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長に片山哲が就任した。(後に委員長に就任)ポツダム宣言受諾により、大日本帝國憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「社会黨 憲法改正要綱」を発表した[1]。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民の生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった[2]。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散・内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第一党となり、その結果民主党・国民協同党との三党連立内閣である片山内閣が成立したが、平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭電事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党か階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。         日本社会党中央執行委員会中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、          片山  哲           加藤 勘十 片山  哲    西尾 末広   森戸 辰男   浅沼稲次郎   〃      浅沼稲次郎   鈴木茂三郎   八百板 正   〃      鈴木茂三郎     〃       〃    鈴木茂三郎    浅沼稲次郎   水谷長三郎   三宅 正一 左右の分裂と総評・社会主義協会の結成その後、左右両派の対立が深刻化し、1950年1月16日には一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立して1951年10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長・島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では平和四原則が決定された。第二代事務局長の高野実も反米・反政府の姿勢を強めた。1951年には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的・理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。1951年、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。        右派・日本社会党中央執行委員会中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、          浅沼稲次郎   水谷長三郎   安井 吉典 河上丈太郎      〃       〃     三宅 正一左派社会党は1954年に、向坂逸郎らが作成に関与し社会主義革命を明記した綱領(左社綱領)を決定した。作成の過程で清水慎三から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が再統一を果たすと、折衷的な内容の綱領(統一社会党綱領)がつくられた。社会党、特に左派は再軍備反対と共に、護憲を公約に掲げるようになった。1955年の第27回総選挙では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定・天皇制廃止を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派から民社党を結党した流れは、次第に明文改憲に傾いていった。        左派・日本社会党中央執行委員会中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、 鈴木茂三郎    野溝  勝   和田 博雄   佐々木更三   〃      和田 博雄   横路 節雄   赤松  勇 再統一と60年安保闘争・三池争議左右両派は1955年10月13日に党大会を開いて社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。1950年代の躍進によって、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大していた。同じ年には保守合同で自由民主党が結成された。日本共産党も、六全協で党の統一を回復した(55年体制成立)。当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年の第4回参議院選挙では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。1957年1月には労働者農民党が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で、衆議院160議席となっていた。しかし、1958年の第28回総選挙では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一三分の一を超す議席を獲得した選挙だった。1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障体制を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側に加担する動きを見せるなどした(第二組合、いわゆる御用組合)。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。なお、民社党の離反の背後には、米国の支援もあった(左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に)。当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。構造改革論争と「道」の策定民社党が分裂したものの野党第一党の地位は揺らぐことなく、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。浅沼稲次郎委員長暗殺直後の1960年第29回総選挙では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の江田三郎は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという構造改革論を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた佐々木更三との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義は資本主義体制を認めた上の「改良主義」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視された。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する革命を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連・中国や東欧諸国など東側陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、東側諸国に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ヴェトナム侵略」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。停滞から低落へこの間、1963年の第30回総選挙では前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は選挙のたびに候補者を増やしていた。社会党も1964年成田三原則(議員党的体質、労組依存、日常活動不足)の指摘など、停滞克服の一定の努力はした。しかし、社会変化に適応した政策策定の不十分と内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。1969年の第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した[3]。これについて、石川真澄は、この当時の社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争(内ゲバ)、中国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)など)のために、社会党に嫌気がさした旧来の支持層の多くが棄権し、各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。しかし、日本共産党はこの時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また新左翼に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、ベトナム戦争はアメリカの不正義性とアジア各国の社会主義の優越性を示すものとして、社会主義への期待は一部に残っており、むしろ、多党化現象の余波を受けたというほうが正確とする意見もある。社会党の財政は弱体で、会派所属の議員に支給される立法事務費を党財政の足しにしていた[4]。そのため、50議席減による減収によって、本部書記(職員)の退職勧誘が行われる事態になった。再就職の当てがある人材を対象としたため、優秀な職員を手放すことになったのも痛手であった。1972年の第33回総選挙では、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。55年体制の成立当初は、社会党は政権獲得を目指したが、地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなかで、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱し、公明党や共産党に支持基盤を奪われることとなった。中国の文化大革命の実態が毛沢東の死後に明らかにされ、カンボジアのポルポト政権による国民の大量虐殺が発覚し、新左翼内部において「内ゲバ」と呼称される数千人の死傷者を伴う暴力的抗争が続発するなかで、有権者の社会主義に対する興味関心を失わせ、これに伴い社会党は現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。社会党は「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がり始めた。特に都市部での凋落はひどかった。東京都議会ではその傾向がひどく、1969年東京都議会議員選挙で、公明党に抜かれ第3党となり、1973年東京都議会議員選挙では共産党にも追い抜かれ、第4党に転落した。その一方、地方では自民党と社会党で議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。(ただし、圧倒的に自民党の議席が多く、北海道など一定の地盤のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった)社会党は都市型政党から、次第に農村型政党に変貌していった。革新自治体と社会主義協会派の台頭60年代後半から70年代の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体選挙では共産党と共闘し、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。社会福祉の充実などに一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判もある。このなかで、社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」を絶対視し、ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、佐々木は中国派傾向を強めるとともに仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化した。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した。また、末端のほとんどの党員はそのような事実は知る由もなかった。一方、自民党もアメリカから援助を受けており、自民・社会両党の対立は、冷戦の代理戦争の様相を一時呈していた。協会規制と「新宣言」1976年の第34回総選挙で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし

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